リラックスカイロノトアンの由来
 カイロプラクティックの技術でリラックスカイロというテクニックは実際にはありません。しかし読んですぐにどんな療術院か一般の方にイメージしてもらえるように、療術院の名前の前につけるキャッチフレーズとして考えました。
 ノトアンとはアイヌ語で「凪ぎ」という意味です。凪ぎとは風がやんで、波がなくなり、海面が静まることの意味で、気持ちが穏やかになる「和ぎ」の意味も込めてこの名前にいたしました。「リラックスカイロ ノトアン」にはそんな気持ちが込められています。
カイロプラクティックとは
 カイロとは「手」。プラクティコスとは「技術」。ともにギリシャ語に源を発するこれら2つの言葉の組み合わせが「カイロプラクティック」と呼ぶ名前の由来です。

 一般の方はカイロプラクティックとは、体の歪みを治すところとお考えの方が多いようですが実際はそれが目的ではありません。当治療院でも、もちろん矯正によって体の歪みを取り除きますがこれは目的ではなく、あくまで手段です。

 脊椎にずれがあれば、その部位の脊髄神経のはたらきに異常が生じます。また体に歪みがなくても神経系に異常が起きる事もあり、それにより筋肉のバランスが崩れて体が歪んでしまう事もあります。 体が歪むと神経に異常が生じ、神経に異常があると体が歪む。つまり体の歪みは神経の異常を生み、その神経の異常によってさらに体が歪みます。さらに歪んだ体は神経の異常を増大させて病的状態に陥ってしまいます。このようにして体は病的悪化の経路をたどるのです。

 カイロプラクティックでは、体の筋肉や内臓を動かす事、内分泌系や体の免疫系、さらには心のはたらきさえもすべて神経によってコントロールされていて、体の全システムの司令塔は神経系であると考えています。その神経機能の異常を正常に戻す手段として矯正をするのです。

 カイロプラクティックとは神経機能の正常化が一番の目的であり、人間の自然治癒力を最大限に発揮させる手技療法です。そして心身をコントロールする神経系のはたらきが完全に機能しているときを「健康」と考えています。

 現在、世界中100ヶ国以上で実施されており、40余の国々で法制化されています。カイロプラクティックの歴史は100年あまり。アメリカでは多くのカイロプラクティック大学があり、米国公認のD.C(ドクター・オブ・カイロプラクティック)の資格を持つドクターはアメリカでは医師と同等の資格として社会的に認められています。
カイロプラクティックの歴史
 カイロプラクティックとは、D.Dパーマー(ダニエル・デービッド・パーマー)氏が1895年より創始された徒手療法です。
 D.Dパーマーは、1845年カナダのオンタリオに生まれました。1885年にアメリカ・アイオワ州のダベンポートに移住し、そこで治療をおこないはじめました。
 ある日、D.Dパーマーの使用人ハーベイ・リラードは、仕事で重荷を担ごうとしたとき、突然何かが背中を走るような感じがしてそれ以来、聴力が低下してついにまったく聞こえなくなってしまいました。
彼はその時の状況に興味を持ち、リラードの脊柱を検査している時、椎骨に盛り上がり(コブ)が出来ているのを発見しました。その時彼は、はその脊椎の盛り上がりと難聴の症状とがなんらかの関係があり、脊椎の異状を矯正して原因を除去することができれば、聴力を回復し得るかもしれないと考えました。彼は難聴になってしまった使用人のハーバー・リラードに、アジャスト(矯正)を試みたところ、その難聴が治るという奇跡的な体験をしたのです。そして、その体験をきっかけとして、今日のカイロプラクティックの基礎となる治療法と理論体系を確立していったのでした。
 D.D.パーマーのカイロプラクターとしての人生は18年間と比較的短いものでありましたが、カイロプラクティックの発展に全てを捧げました。その意志は、息子でもあるB.Jパーマーに引き継がれ、孫のD.D.パーマー3世の時に科学的に認められ、法制化されました。



 日本人最初のカイロプラクターは1907年にパーマースクールを卒業した森久保繁太郎ですが、彼は卒後、米国で生涯を過ごしました。日本に伝えられたのは、DDパーマーが設立したアイオワ州ダベンポートにあるパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティックを卒業した川口三郎によって、1916年(大正5年)に伝えられました。その後、かなりの数の日本人が米国へ留学しましたが一時途絶え、1961年、戦後初のカイロプラクター、竹谷内一愿(たけやちかずよし)がナショナル・カレッジ・オブ・カイロプラクティックを卒業し帰国しました。しかし、当時は、わずかながらの人の目にしか触れることができませんでした。町のいたるところでカイロプラクティックの看板を見かけるようになったのは、昭和40年代以降のことです。